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ローマ教皇庁と戦争

ローマ教皇庁にこんなに深い意味があったとは知りませんでした。
一度いってみたいなぁ。

1861年のイタリア王国成立以来、教皇領を失った、ローマ教皇庁は世俗的政策をそれまでになく一層打ち出してきた。第1次世界大戦後の『ヴェルサイユ体制』に関しては「平和のようなもの」(ピウス11世)と批判的であった。ムッソリーニ政権が誕生するとラテラノ条約を結び長年の対立を解消。バチカン市国となった。主権国家となった教皇庁は各国との外交を活発に行う一方、社会主義政権を非難する一方でドイツ中央党を通じてドイツのナチス党に接近した。その後ナチスがユダヤ人などに対する人種差別政策を行うとそれを非難した。

日本の皇太子裕仁親王がバチカンを訪れた際にはそれを歓迎し、日本との国交樹立を模索したが、日本国内での「キリスト教アレルギー」の世論のなかで立ち消えとなった。なお、日本は1942年に昭和天皇の判断でバチカンと国交を結ぶことになる(『昭和天皇独白録』)。


オーストリア
1930年代に首相の地位にあったキリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフースは隣国ドイツの影響で急速に浸透してきたナチスを強く軽蔑していた。このため、国内では極右組織の護国団と手を組んで社会民主党やナチス勢力と対峙させ、対外的にはイタリアのムッソリーニと同盟を結んでナチス・ドイツの南下を防止しようとした。1934年、彼は1934年の内乱を起こして社会民主党を禁止してオーストロ・ファシズムと呼ばれる神聖ローマ帝国を範とした独自の独裁体制を樹立した。社会民主党の状況を目の当たりにしたオーストリア・ナチスは危機感を抱き、1935年にクーデターを起こしてドルフースの暗殺には成功したが、政権奪取そのものには失敗した。

後継者のクルト・シュシュニックは、ドルフースの路線を継承したが、今度はヒトラーが直接シューシュニクに圧力をかけてナチスからの閣僚入閣と護国団の排除を行わせた。1938年にシューシュニクが国家の独立存続の是非を問う国民投票を行う決定をすると、ヒトラーは極秘にムッソリーニの了解を得ると軍隊をオーストリアに侵攻させ、首都ウィーンを占領してシューシュニクを逮捕した。ヒトラーは直ちにウィーンに乗り込んでドイツ軍を背景に組閣したオーストリア・ナチスの領袖ザイス=インクヴァルト新首相と併合条約を結んだ(アンシュルス)。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月23日 17:58に投稿されたエントリーのページです。

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